55歳で家督を嗣子自得斎に譲った後は、牛込赤城下に隠棲してなお愈々盛んに茶の湯活動を展開しました。
下って七代蓮々斎の頃には上野池ノ端に居を構え、八代一元斎、一元斎夫人宗鶴、当代閑雪の尽力によって庵が整えられていきましたが残念ながら宗家の手を離れてしまいました。
そこで、その後あらためて一元斎夫人宗鶴、当代閑雪、当代夫人翠鶴によって、向ヶ丘弥生町の地に宗家が営まれ現在にいたっています。
この門は宗家の表門で、数寄造り桧皮葺きの屋根の門をくぐると石畳が延べられており、右手に母屋の玄関、正面の中門の向こうには露地が続いています。
不白は、宝暦5年(1755)に二度目の江戸帰府をはたし、これ以降いよいよ江戸での活動を開始いたしました。
それに際して営んだのがこの蓮華庵です。
内部は、三畳台目切り道庵囲いですが、特に目をひくのはその床柱でしょう。
直径一尺六寸の太い床柱は、建長寺の山門の柱を譲り受けて使われたということです。
床に向かって右側の裏手、茶道口の正面には利休堂が設えられています。
蓮華庵は、当初神田明神の境内に建てられました。
すなわち、江戸市井の人々が大勢集う江戸の産土神様は、江戸千家にとって発祥の地とも言うべき場所となりました。
当時の庵は現存しませんが、現在は宗家隣接の江戸千家会館内に復元されています。
花月楼は宝暦8年(1758)、その三年前に建てられた蓮華庵に隣接してやはり神田明神境内に営まれました。
宝暦5年に江戸への二度目の帰府をはたした不白は、それ以降の3年間も引き続き京都との二重生活を続け、師の嗣子の後見に努めていたと考えられています。宝暦7年にが家元を襲名した後は、いよいよ江戸の地に根差した本格的な活動が始まりました。花月楼はその舞台となった茶室です。
八畳の広間の花月楼は、正面中央に一間の床を有し、いわゆる花月床といわれる形式をとります。その名の通り、師の如心斎とともに考案した時代即応の新稽古法「七事式」を執行するのに適した造りとなっています。不白は「七事式」を最大限に使って、江戸の地で千家の茶の湯を広めていったのです。
当時の茶室は現存しませんが、現在は宗家内に復元されています。
天明元年(1781)、不白は菩提寺の谷中・安立寺に日親上人のために日親堂を寄進しますが、その時同時にこの不白堂をも寄進しました。
二代自得斎宗幸が不白に代わって設計したという不白堂は、三畳出炉で床脇に仏壇を設えて、ここに不白自身の木像と、後に歴代親族の戒名を記すことになる円筒位牌を納めました。
明治維新までは建っていましたが、老朽して補修が困難になり取り壊されたということです。
現在は宗家内に復元されていますが、復元に際しては当代家元の手によって三畳台目に広げられました。軒下には不白自筆の篇額が掲げられています。
昭和50年(1975)、宗家に隣接して江戸千家会館が建てられました。
地上4階地下1階の鉄筋コンクリート造りの建物の内部には、復元された蓮華庵をはじめ、不式庵、擔雪軒、立礼席や大広間などが設えられています。
江戸千家会館は、宗家行事、財団行事はもとより、全国社中の研修道場として幅広く活用されています。