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不白が江戸に千家の茶道を

流祖・不白は、享保4年(1719)3月、今の和歌山県の紀州新宮藩川上五郎作の二男として生まれ、16歳のおり、表千家七世如心斎天然宗左宗匠の内弟子となって、茶道の修行を始めました。32歳の寛延3年(1750)10月、如心斎宗匠の「江戸に千家の茶を広めたい」との願いと、それには高弟の不白がよいであろうということになり、江戸への出府となりました。

創意工夫で新しい茶道

江戸千家茶道は”不白の茶”ということですが、この”不白の茶”は、本源においては「茶と禅」の理想を示した村田珠光、これを受け継ぎ、「枯淡の美」すなわち「侘び」を目指した武野紹鴎、これらを集大成して茶道の原点を完成した茶聖・千利休に立脚していることはいうまでもありません。不白は茶の本源のうえに、創意、工夫を加え、新しい茶法を創成しました。その大きな所産の一つが如心斎宗匠と編み出した七事式であるということができるでしょう。また、不白は上方をその発祥とする茶の湯の考え方に江戸っ子の粋を吹き込み、明快で率直な江戸前の茶の湯を実践していきました。

公卿、大名、文化人厚い層の門人

不白は、89年の生涯を通じて、格式ある書院の茶や利休によって大成された草庵の侘び茶の精神を基本として、亭主と客が一日を和やかに楽しく過ごし、生活の中に茶の心が見られるように努めたのでした。このことと、茶の湯の変革期にあったという時代性、情報発信の最先端であった江戸の地にあったという地域性とが相俟って、ほとんど全国への江戸千家の茶道の広がりとなりました。
不白は、公卿、大名、文化人、そのほか多くの人々との厚く深い親交を持ちました。また、書をよくし、このほか、手造りの茶わんや茶入、香合などといいた作陶、茶杓や花入などと言った竹芸、また、釜、棚などに見られる好み物などが多数残されており、美術品としての高い香りを見せています。
江戸千家茶道に入門することによって、こうした流祖・不白の数々の名品との出会いが身近になり、また不白以来連綿と続く江戸千家の点前を学ぶことを通じて、そこに流祖の生きた時代がまざまざとよみがえり、流祖の遺徳を身近に感じることと同時に、”不白の茶”に立脚した物事の考え方が現代にも通用し、かつその必要性を身近にかんじることができるでしょう。