東京教育大学名誉教授 西山松之助
川上不白は享保19年、16歳で表千家七代目宗匠如心斎天然の内弟子となり、寛延3年、32歳で江戸に帰るまで、如心斎の側近で修行し、かつ共に大徳寺大竜和尚に参禅したり、不白ただ一人だけが如心斎に許されて、その肖像画を描いたり、七事式制定に深く参画したりするほど師・如心斎の信頼を得ていた。
江戸帰りの直後、冬木家所蔵の「利休遺偈」を如心斎に引き渡したのも不白の力によるものであった。江戸での57年間の不白の活躍はめざましく、老中田沼、老中太田備中守、旗本森山孝盛、大名では島津、毛利、池田、南部はじめ多数、大町人青地宗白、狩谷掖斎その他江戸の茶道界を千家茶道に改流させた観があった。だからその門人から多くの分流が出来た。
しかし、現在、川上不白の血脈正脈の宗家家元は、弥生町の川上閑雪宗匠である。私は、「初代不白時代の懐石」執筆に当たり、不白の会記と如心斎の会記に記された懐石が瓜二つのように酷似しており、その懐石料理が先代宗鶴宗匠にそっくり伝わりそれが閑雪家元と翠鶴家元夫人に完全に伝承されているのを目のあたりにして驚嘆した。すべてがかくのごとくで、私は茶道という日本の伝統芸術の生きた歴史の重みを弥生町で体感した。
茶の湯は600年の歴史をもつ、日本古来固有の伝統文化です。歴史あるヨーロッパの文化にも引けを取らない日本が世界に誇る立派な財産であると言っても過言ではないでしょう。例えば茶の湯をヨーロッパのクラシック音楽と比べてみると、侘び茶を大成した千利休は、ルネサンス後期を代表するパレストリーナとほぼ同時期にあたり、また、茶の湯の形がほぼ現行の姿に定まってきた時代を生きた川上不白は、古典派の天才モーツァルトの父、レオポルト・モーツァルトと生まれ年を同じにします。事程左様に、世界史の中でも確固たる立場を持ち、さらにはその発生以来の形式を踏襲し、現在もますます多くの人々によって実際に行われ親しまれている伝統文化は、世界的にもそれほど多くの類例を見ないと思われます。その点で、茶の湯は日本の持つ国際標準の財産の一つであると言えるのではないでしょうか。
明治維新以来、日本では合理的で実用的な欧米型論理的思考を第一義とし、伝統的な日本の思考方法である情緒的思考を劣ったものとして蔑んできました。そしてその傾向は現在においても一向に衰えることはないかのように見えます。しかし近年では、欧米型の論理的思考の行き詰まりを示唆し、科学と精神文化の乖離を超克して日本型東洋型の情緒的思考との収斂を成し遂げることが21世紀の人類に必要であるとする世界の知識人も少なからずいるのです。
現在の茶の湯を担う現代人は、もちろん欧米型論理的思考の深く入り込んだ精神構造をし、また日常生活を送っていますが、一方で茶の湯それ自身は、いまだに日本古来の伝統的な情緒的思考に立脚していることは言うまでもありません。その意味において、現代の茶の湯は、世界の知識人たちが目指す論理的思考と情緒的思考との対等の立場としての収斂の場をすでに実践しているのだということができるでしょう。
茶の湯は、とかく「古臭い」「封建的だ」「現代には必要のないものである」と揶揄されがちかも知れません。しかし先に述べましたように「知の収斂」をなし得ている事こそが、新世紀を迎え、いよいよ国際化に拍車がかかってきた現代日本における、茶の湯の存在意義を一層増大させていると言うことができると思います。今後とも私たちは、江戸千家のお茶、不白のお茶をとおして、日本の茶の湯文化をさらに大切に実践し、より豊かな実りをもって後代に護り伝えていく覚悟です。延いてはその事によって、直接間接に日本の国際社会での独自性に寄与できるものと確信しております。
江戸千家は、川上不白(蓮華庵・圓頓斎・孤峰・日祥)が寛延3年(1750)に京都より江戸に下り、千家の茶を伝えた茶の湯の流儀です。爾来、250有余年の長きにわたって川上家の代々が江戸・東京の地にあって千家の茶の湯、不白の茶の湯を今日に守り伝えてまいりました。
表千家七世家元・如心斎天然宗左宗匠の高弟であった川上不白の茶の湯は、本来的には京都の町衆の御茶でありましたが、武家都市・江戸で千家の茶の湯を広めるうちに、やがて江戸の気風と相俟って、利休以来の千家代々の道統を踏まえながらも独自の茶風を織り成していったことと思われます。それ故に、後には江戸の町人のみならず、御公家をはじめ、多くの大名・旗本・御家人などといった武家が不白の門戸を叩くこととなっていきました。江戸で大変な流行となった不白の茶の湯は、やがて参勤交代の制によって江戸から日本各地へと伝播され、全国に不白のもたらした千家の茶の湯が広まることとなりました。
不白の没後、川上家の代々が不白の茶の湯を守り伝えてまいりましたが、その道は決して平板なものではありませんでした。明治維新期前後の世情不安と世を挙げての欧化主義は、一時期江戸を離れざるを得ない状況ももたらしました。また、太平洋戦争時においては大空襲をはじめ幾多の困難もあり、さらにそれを遠因として近年には家が乱れる不幸な出来事もありました。しかし、その時々の宗匠がたの努力や、お社中有志のお力添えによって、今日の流儀は磐石な礎を築くことができました。
その江戸千家の家元歴代の継承には、特徴的な面があると言うことができると思われます。一般的には、家の継承というと血脈の継続と家督の相続のみに重きが置かれがちでしょうが、江戸千家の家元継承の場合は些か趣を異にいたします。すなわち江戸千家では、流祖川上不白以来、家元の継承と家督の相続は各々別個の事として扱われてまいりました。勿論、理想的には家元の継承者と家督の相続者が同一人であることが望ましいことは論を俟たないことですが、一方、必ずしもそのようにならない場合も起こり得るでしょう。そういった場合には、その双方各々に別々の相続が行われることもあり、ゆえに、伝来の道具や相続を受けた家屋敷が常に家元の証となるとは限りません。こういった事は、より式正に不白の茶の湯の術と心を守り伝えていくための伝統となっているのです。
不白の茶の湯の特質としてその最も根本にあるものは「常」ということでありましょう。「常」は不白がまだ如心斎の許での修業中、延享元年26歳の時に如心斎の紀州出勤に随行した折りに悟ったと言われ、以後、不白の茶道理念の根本となりました。「常」は、禅語に「平常心是道」という言葉があり、また、千家代々に伝わり如心斎からたびたび教えを受けた「茶の湯は常のことなり」という言葉があるように、日常の行住坐臥、普段の生活の中にこそ真理がある、あるいは、そういった生活行動の渦中にいる時も、いつ何時でも道心をもって対処せよというように理解することができるでしょう。不白はこの「常」の悟りを後に「平常心是茶」という語に発展させてまいります。
一方で、この「常」の悟りの延長線上にある理念として捉えることができると思われますが、柔軟さもまたその特質を表すキーワードと言うことができると思われます。不白の茶の湯は、利休以来の千家代々の道統という原理原則を大切にし、そこに立脚しながらも時々の臨機応変の気働きを大切にいたします。それと同時に、茶の湯理念、手造りや好みの道具の趣味にみられるように、相反するが如き諸相を自身の内に併せ持つということもその魅力の一つに挙げられるでしょう。
こういった不白の茶の湯の特質は、江戸千家歴代の宗匠によって護り伝えられ、現代においても江戸千家茶道の伝統として護持されています。
昭和51年(1976)10月21日、江戸千家と宗家代々の働きが認められ、文化庁所管の「財団法人江戸千家茶道会」の設立が認可されました。これは、流祖川上不白以来の江戸千家の茶の湯の道統が、現在の宗家に正しく継承されていることが認知されたゆえのことであります。
また、平成元年(1989)11月4日には、江戸千家の近縁の流れの諸家の御賛同御参列のもと、江戸千家の「宗家」として改めての披露をさせていただきました。これは、川上不白の茶の湯の流れを組む諸流の中における「宗家」としての立場を皆様からお与えいただいたものとして大変重要な事で、これ以降「江戸千家宗家」を名乗らせていただくこととなりました。
現在、江戸千家の宗家直門教場、同門組織であるところの「江戸千家不白会」の支部・同友会は全国に40有余を数え、多くの御社中・同門の方々が川上不白の茶の湯の流れを受け継いでおられます。