江戸千家の歴代については、残念ながら二代自得斎宗幸以後、いまだ判然としないことも少なくありません。これは、江戸・東京という町が、明治維新前後の動乱、関東大震災後の混乱、第二次世界大戦時の壊滅的な空襲など、幾多の艱難辛苦をくぐり抜けて来た故に、史資料の多くが散逸しあるいは失われてしまった結果であろうと思われます。実際に宗家でも、第二次世界大戦時の東京空襲に備えて、当代閑雪宗匠の手によって重要な書物の多くが茶櫃に入れられて土中に埋められ一旦は難を逃れましたが、戦後の混乱によって掘り出すのが遅れ、結果として残念ながら土中で朽ちて失われてしまいました。しかし、茶の湯は禅宗と同様に不立文字の世界で、大切なことは文字に書かれた記録ではなく、直接代々を通して伝えられた心術であるということに改めて思いが至ります。ここでは、不完全ながらも流祖川上不白の後の江戸千家の歴史について簡単に触れてみたいと思います
二代自得斎宗幸は、元文3年(1738)に不白の嗣子として生を受けました(養子説もあり)。寛政4年(1792)55歳で流祖不白より家督を譲られ、これより宗雪を名乗りました。家督を譲られた後も、御茶の上での川上家の当主は不白でした。この相続の形は、現代においても江戸千家で続けられている特徴的な形式と言えるでしょう。のちに名を宗幸と改め、文政5年(1822)85歳で没しました。別号として機嫌亭、雪堂などの名乗りもあります。
三代不白斎宗閑は、初め不白の門人だったということですが、後に二代自得斎宗幸の養子となったと伝えられます。二代自得斎と同年に亡くなっています。
四代新柳斎鶴叟不白は、はじめ閑雪を名乗り、二代自得斎宗幸の子と言われています。寛政4年(1792)に生を受け、幕末の動乱期の江戸千家をよく護りました。嘉永4年(1851)発行の「茶人番付」では筆頭、東の大関の位に列せられ、また書き付けや好み物、書画なども歴代の中では比較的に多く残っており、当時の活躍が偲ばれます。ただ、時代が風雲急を告げるが如き幕末の動乱期であったために、不遇にも晩年は主君の水野侯に付き従って流祖孤峰不白の生地である新宮に帰り、明治2年(1869)にその地で生涯を閉じました。それ故に歴代では唯一新宮に墓碑が残っています。
五代圓頓斎宗雪は、四代新柳斎鶴叟不白の子として文化年間末頃に生を受けたと思われますが、残念ながら早世であったためか、あるいはそれが幕末にかかっていたためか、ほとんど記録が残っていません。先の嘉永4年(1851)発行の「茶人番付」では、東の前頭十枚目に列せられているのがこの五代圓頓斎であると想像できます。安政3年(1856)に他界しますが40歳前後のことであったようです。
六代丁々斎鶴叟宗雪と七代蓮々斎千峰不白は兄弟でした。祖父である四代鶴叟不白を新宮の地で亡くし、兄弟ともに東京となった江戸での活動を再開しました。兄の六代丁々斎鶴叟は、はじめ「宗六」といったということですが、後には五代圓頓斎の名を継いで宗雪を名乗りました。父同様に早世で、ほどなくして明治14年(1881)に没しました。やはり40歳代のことと思われます。
七代蓮々斎千峰不白は、弘化3年(1846)に生を受け、幼名を「帰一」と名づけられたといいます。長じて閑雪を名乗り、後には不白にまでなりました。蓮々斎不白は、幕末維新期の混乱で乱れかけていた流儀を取りまとめ、宗家の再興整備に奔走しましたが、道半ばの明治41年(1908)に他界いたしました。
七代蓮々斎不白の亡き後、その遺志をついで江戸千家を支えたのは七代夫人であった雪峰白鶴です。白鶴は歴代にこそ数えられてはいませんが、六代夫人の友鶴ともども家元不在の江戸千家をよく護り、不白以来の心術を途絶えさせることなく正しく次代に伝えました。また、白鶴は大変に厳しい稽古で知られたということですが、この白鶴の活躍によって宗家における家元夫人の働きの重要さが飛躍的に増し、後の八代夫人宗鶴、当代夫人翠鶴に伝わる、いわゆる「鶴の口伝」と呼び習わされるようになった家元夫人としての規範が確立されていったのです。白鶴は後代、特に八代夫人宗鶴に厳しい稽古を施しつつ昭和13年(1938)75歳で他界をいたしました。
八代一元斎嘯峰不白は、白鶴の養子として川上家に迎えられました。七代夫人白鶴の下で厳しい修行を積み、やがては七代蓮々斎不白の初名閑雪を襲い家元となるまでになりました。しかし、ここでも流祖不白と二代自得斎との間で見られた宗家継承の伝統どおり、当初は江戸千家の当主は七代夫人白鶴でした。後に一元斎が不白を名乗ると名実ともに宗家の当主となり、家督もまた一元斎のもとに落ち着きました。一元斎は白鶴の教えをよく護り発展させ、明治維新後の江戸千家を大きく開花させたので、流儀では「中興の祖」と位置づけています。しかし、晩年には第二次世界大戦が勃発し、世の中はお茶どころではなくなっていき、せっかく興隆させてきた江戸千家も暗黒の時代に入ってまいります。一元斎は昭和19年(1944)、東京空襲が激しくなりつつあるなか61歳で他界してしまいます。
戦中戦後の茶の湯暗黒時代、江戸千家にとっても家元不在の最大の危機であった時代を乗り切ってきたのは八代夫人の清峰庵宗鶴でした。宗鶴もまた家元として歴代には数えられてはいませんが、ある意味では家元以上の働きがあったと言っても過言ではありません。病身であった一元斎の看病をし、一元斎亡き後も空襲の中を掻い潜って流儀を護ってまいりました。そして、戦後間もなくから、東京はもとより、夜汽車を乗り継いで全国を行脚して江戸千家の地方支部の拡充に努めました。当時はもちろん新幹線も飛行機もなく、終戦後の殺伐とした世情の中、当時40歳代の女性が時には何十時間も夜汽車に揺られて北は青森から南は九州まで、文字通り全国を行脚したその労苦は想像にあまりあるものだったでしょう。戦後60年を迎えたいま、毎年のようにいくつもの地方支部が60周年、50周年と記念の茶会を開筵できるのは、まさにこの時の宗鶴の働きが有ったからこそということができ、今日の江戸千家があるのは宗鶴のおかげであると言っても過言ではありません。それ故にお社中の間で今も「大先生」「江戸千家の母」として慕われているのです。
宗鶴は一元斎亡き後の九代を長男の名元庵宗雪に継がせましたが、名元庵は若い頃から病弱で、初期には稽古場にも座りましたが後には進行性麻痺といわれ、晩年は自由に体を動かすことも話すこともできなくなっていました。それ故に宗家の活動は宗鶴と次男である当代不式庵閑雪によって営まれてまいりました。宗鶴と不式庵閑雪は、地方支部の拡充に努める傍ら、蓮々斎以来、一元斎によって整えられてきた宗家の整備を進め、花月楼の再建修復、東京都による一圓庵の史跡指定などを進めてまいりました。その後、名元庵は昭和43年(1968)に48歳で他界いたしました。
名元庵の没後、宗家はじめ社中有志の相談の結果、皆様の「宗鶴先生こそが江戸千家の式正の道統」という多数のご意見によって、宗鶴とともに宗家を支えてきた不式庵閑雪が十代家元を継承することとなりました。以後残念ながら家元の継承と家督の相続とが別々の道を辿りはじめることとなってはしまいましたが、流祖不白と二代自得斎との間で見られた以来の宗家継承の伝統が活かされることによって、流祖不白以来の式正の道統、心術が正しく今日の江戸千家宗家に伝えられることとなりました。
当代不式庵閑雪は家元継承以来35年を迎え、愈々盛んに茶の湯活動に勤しんでおります。その根本にあるものは、不白以来の江戸千家の道統を正しく伝え、同時に次代に合致した茶の湯を創案し続けていくことと言えるでしょう。
また、宗鶴は残念ながら昭和55年(1980)にこの世を去りましたが、白鶴以来、宗鶴によって大きな意味づけを与えられた「鶴の口伝」は、当代夫人翠鶴に十二分に受け継がれ、宗家教場長として、あるいは茶花に懐石にと、現在の江戸千家にとって翠鶴の存在もまたなくてはならないものとなっています。
江戸千家は、平成18年(2006)には流祖孤峰不白の二百回忌を迎えることとなります。その記念の年に向かって、宗家を中心に江戸千家は一丸となって新たな展開を迎えようとしているのです。
流祖 | 蓮華庵圓頓斎孤峰不白 (別号) 黙雷庵 一乗庵 妙々斎 花月樓 亭々亭 宗雪 不羨 新柳 日祥 文化4年(1807)10月4日 歿(89) |
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二代 | 日々庵自得斎龍渓宗幸 (別号) 不白斎 雪堂 閑雪 宗雪 宗引 文政5年(1822)7月5日 歿(85) |
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三代 | 孤峰庵不白斎宗閑 (別号) 閑雪 宗雪 文政5年(1822)12月11日 歿(85) |
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四代 | 蓮華庵新柳斎鶴叟不白 (別号) 自得斎 閑雪 宗雪 明治2年(1869)10月28日 歿(78) |
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五代 | 圓頓斎宗雪 安政3年(1856)12月22日 歿 |
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六代 | 日々庵丁々斎鶴叟宗雪 明治14年(1881)5月19日 歿 |
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七代 | 一円庵蓮々斎千峰不白 (別号) 閑雪 明治41年(1908)8月29日 歿(63) 室 雪峰白鶴 |
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八代 | 宙心庵一元斎嘯峰不白 (別号) 芙蓉庵 連峰斎 閑雪 昭和19年(1944)11月26日 歿(61) 室 清峰庵宗鶴 |
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九代 | 名元庵宗雪 昭和43年(1968)3月26日 歿(48) |
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十代 | 蓮華庵閑雪(当代) (別号) 不式庵 探源斎 不白堂 花月樓 擔雪軒 室 祥峰庵翠鶴 |