早春の恒例であります二月十一日〈建国記念の日〉の「東京茶道会招待茶会」が今年も護国寺において開かれ、お家元が〈牡丹の間〉にてお席持をされました。
この日の東京は朝から降雪。出掛けに見たニュースでは皇居前が一面真っ白になっておりましたが、幸い開始時刻までに雪は止み、徐々に空も明るくなってゆきました。但し最高気温は4℃止まり。寒さ厳しき一日でしたが、大勢様がお出ましになりました。
お席の〈牡丹の間〉では、毎回お家元がお客様方ににこやかに御挨拶を。お点前は若宗匠と峯雪先生がお務めになり、半東には智大様が入られました。なおお家元におかれましては、本年より「探源斎不白」と名乗られている旨、この日承りました。遅ればせながらここに御報告申し上げます。
床の御軸は澤庵和尚筆の一行「梅花無尽蔵」。春の訪れを感じさせる一行ですが、出典は南宋の詩人・陸游の「要識梅花無尽蔵 人人襟袖帯香帰」から。室町中期の禅僧で歌人でもある万里集九がその庵や詩文集に〝梅花無尽蔵〟と名付けたことからこの一節が知られるようになったそうです(この句で悟りを得たとも)。
万里集九は相国寺雲頂院・大圭宗价の弟子となり学芸を身につけましたが、応仁の乱で相国寺が兵火にかかり、以後、近江・美濃・尾張を転々とし、大田道灌に招かれ庇護を受けていた時期もあります。またその詩文集『梅花無尽蔵』は貴重な歴史的資料として知られております。
お花は妙蓮寺椿に山茱萸。花入はご流祖作の竹二重で銘「此君」。晉の王子猷が竹を愛した故事から「此君」は竹の異名となっております。香合はお目出度く甲蓋に「福」の字が彫られている黄交趾。
梅と竹が出ましたので、どこかに松があるのでは、ということで先回りして松について記しますと、この日の棚は紹鷗棚。紹鷗棚には砂張の水指と老松割蓋茶器を置くのが御流儀のキマリ。こうして「松竹梅」が揃いました。
この老松割蓋は、豊臣秀吉が「袖ふりの松」と名付けた老松が倒れたのを覚々斎原叟が惜しみ、これを材として三十個作らせた内の一つだそうで、蝶番付の割蓋の裏に原叟の花押が朱書されておりました。
紹鷗棚の地袋に置かれた水指は時代の朝鮮砂張。実に艶やかな美しさがあり、水が入ると白い斑(ふ)が浮かびあがるところに朝鮮砂張らしさがあるのだそうです。
釜は毎年御初釜「花月楼」で拝見しているご流祖好、大西浄元作の寿釜。円相に「寿」と「八十一翁 不白」とあり、亀の鐶付は緑毛まで再現されている緻密な作でした。
さて、この日のお茶盌は大変に珍しいもの。樂九代了入、十代旦入合作の三ツ組茶盌でした。箱書も双筆で、右に了入が隠居印とともに〝さらへの画〟と書き、左には旦入が〝赤 老松〟〝筒 若松〟そして〝十代〟とのみ記して樂の拝領印が捺してあります。さらに蓋の甲書きには旦入の書で〝赤黒茶碗 三〟〝黒老父造〟〝田中吉左衛門〟とあり、実に貴重な箱書を拝見できました。なお〝さらへ〟は浚うの意で、つまり「熊手の絵」が描かれた了入作の黒樂と、これに旦入作の赤樂「老松」、筒茶盌「若松」とで三ツ組になっており、しかも箱書が双筆ということは、了入隠居後にはじめから三ツ組として作られたと思われるので、とても珍しいものではないかとのお話でした。
お席では「老松」が茶器と重なるので脇床に飾られ、主茶盌に「熊手の絵」の黒、筒茶盌の「若松」を替茶盌として用いられておりました。
茶杓は如心斎作の銘「一誉(ひとほまれ)」。
かなり薄手で櫂先も細く、蟻腰のないまさしく如心斎型の茶杓。お客様方も手に取りながら御説明に頷いておられました。
下記の「お会記」を御覧いただければお分かりのように、松竹梅や寿釜など、この日のお道具組は例年に比べお目出度いものを多く揃えられておりましたが、これは本年がご流祖の生誕三百年にあたることに因んでのお取り合せ。
記念すべき年の最初の「東京茶道会茶会」にて、春の季節感とともに貴重なお道具の数々が堪能できた〈牡丹の間〉のお席でありました。
〈当日の会記〉
東京茶道会 招待茶会
平成三十一年二月十一日
音羽護国寺 牡丹の間
主 江戸千家宗家家元
川上探源斎不白
床 澤庵和尚一行
梅花無尽蔵
花 妙蓮寺椿 山茱萸
花入 流祖 竹二重 銘 此君
香合 交趾 福の字
釜 流祖好 寿釜 浄元作
風炉先 不白好 四ツ折
炉縁 黒柿 青海波 面蒔絵
棚 紹鷗棚
水指 砂張
茶器 老松割蓋 原叟在判
不白箱
茶盌 了入 旦入 三ッ組
老松 若松
茶杓 如心斎作 銘 一誉 共筒
了々斎箱
建水 モール
蓋置 古染付 千切
御茶 寿泉の白 ほ里つ詰
菓子 梅 鶴屋八幡製
器 好 縁高